決断について

なにかを決断するのには必ず責任が伴う。その決断によって得られるものが大きければそれだけ責任も大きい。偉人というのは、それをわかっていて決断していった。それは、得られる結果に自信があったからで、それは最高という結果だけでは必ずしもなかっただろう。身近な失敗を重ねてゆくことで学び、一歩ずつ成功へのコマを進めていったはずだ。

私たちの私生活も同じだろう。何かを早まって決断するとき、あるいは決断したときの心情は、それで良いや、という目先の結果ばかりを見てしまい、見たくない責任には怖くて目をそらそうとする。目前の安寧を求めるのも良いが、長期的なスパンで物事を考えられるといいな、と思う。何かの決断を評価するのは現在の自分だけではない。1時間後の自分も、明日明後日の自分も、はたまた20年後の自分も決断を評価しうる。というか生きてる限りは評価するだろう。今すぐの利益を求める必要はない。誰でもできることから得られる利益など、ありふれたものだ。苦しいこと、厳しいことを耐えて耐えて、それでも耐えてようやく得られる結果が素晴らしいことは過去の偉人が証明している。この地球に奇跡的に生を享受しておきながら、周りと同じことをして食って出すだけのサルでいるなんてもったいないだろう。

魅力的な人というのは、常に前を向いている人ではなく、後ろを見続けない人のことだと思う。自分が楽しかったら、その楽しさや自ずと周りに伝わる。彼女が求めるのはそういうヒトだろう。ぜひどうか、日常的に周りで起こるミラクルに興味を持って取り組んでいてほしい。この文章を書いてから現在までの自分へ。

ありがたみ

夏夏夏、秋。

夏のピークが去り、夜はセミに代わってスズムシが鳴き始め、あたりは秋の訪れを思わせる。日が暮れて1時間と経たない19時の外は、すでに肌寒い。毎年感じるこのハッとなる発見は、毎年同じもののように見えて、どこか違う。目に見える違いがあるのか、と問われるとそうではない。その年の夏の始まりから終わりに向けて、自らの心境にどのような変化があったか、が大きく反映されるのだ。思えば夏の始まりも終わりと同様に印象深い。日が短い頃と比べて明らかに強い日差しや度を越した外気温は、認識せざるをえない強烈なものだ。

四季とは素晴らしい。各季節を印象的に区切ることで、その折々における出来事が、まるでいつでも取り出せるもののようにはっきりとした記憶の定着を促す働きがある。そしてその折りごとに、四季のありがたみが一層感じられる。

 

失って初めてわかるありがたみというものは、存在するのか。目まぐるしく変化する周囲の環境は、多くの要素が複雑に絡み合って成り立っている。無人島に1人で住んでいるわけでもなければ、すべての人は繋がっている。繋がっている以上、1人いなくなれば、1つの繋がりを失う人が現れる。それは些細なように見えて実は大きなことなのかもしれない。繋がりの消失がその人や周囲にどれほどの影響をもたらすかどうかは、実際に消失しなければわからない。ともすると自分に降りかかることもあるかもしれない。すると、それによる苦しみやロスから解放されるにはどうするのがいいのか。

それは、普段からありがたみを認識して受け入れることだ。ありがたみを受け入れると、感謝の情が表れる。ありがたみに感謝すると人はそれに対して応えようと真面目になる。そうすると、そもそも失って初めてわかるありがたみもなくなる上、努力によって自分に強くなる。

彼女

やり方の良し悪しを重んじるあまり、本来の目的を見失いつつある。

自分に言い聞かせよう。まだ、そんなに焦るほどじゃないんじゃない?

久しぶりです。

ひょんな気持ちで始めたブログも気づけば126日間放置してしまっていた。また復帰します。

ピアノ部の定演も終わり、期末レポートも全て終わり、夏休みを満喫している。

夏だね。

世間ではやれプールだのやれ花火だのと賑やかだ。ちょっと人通りの多い街を歩くだけでたくさんの夏を身近に感じることができるのは嬉しい。

四季のうち、個人的に最も過ごしやすいと思うのは秋だ。しかし、概念としての四季では夏が最も気に入っている。秋は、その過ごしやすさ故に実感できることが少ない。口内炎ができてようやく口内炎がないことのありがたみを実感するアレと同じである。夏と冬の間に存在する、具体的にはどこからどこまでとは仕切りを立てがたい、ただ過ごしやすいと感じる季節。そんな漠然とした秋にこそプレミア的な価値を感じる。

夏はどうか。暑い、洗濯物が増える、不快などとまあマイナス点は無限に挙げられるだろうが、それだけ夏がもつ特徴、印象はずば抜けている。じりじりと射す夏の日差しであったり、鳴り止まないセミの声、薄曇りの森に響き渡るひぐらしの音色、太陽の光をキラキラと写す海、かき氷の持つ視覚的な涼しさ。これらは、ひと目で夏とわかる風物詩だ。夏にはこうした季節の代表選手が多いように感じられる。代表選手一人一人が、夏としての誇りを持っており、人がそれに触れると思わず夏を連想してしまう。ぐっと引き込まれる。これらは、歌、絵画、映画などの芸術作品で用いられた際に鑑賞者を世界に引き込みやすい。すなわち、人がイメージしやすいのだろうと思う。

日本では古くから俳句の文化があり、四季を扱う作品についてはどの国よりも早かったのではないだろうか。今日では、歌曲においてその存在感は絶大であるように思う。思い出補正こそあれ、連想しやすいキャッチーな歌は、楽しく素敵な夏を期待させる。それが印象的であればあるほど、1年に一度訪れる夏が恋しく思えるのである。

要約すると、この夏休み中に夏うた縛りでカラオケをしたい。

素直に?

「素直に生きるとやりやすいよ」と言われた。ふんふん。素直ってなんなんだろ。自分はできるだけ素直に生きようとしてきた。変に考えすぎず自然に過ごすことがそうだと思っていた。でも違った。このメッセージの意味は、周りの様子をもっとよく見て過ごせ、ということの遠回しな言い方だと気づくのにしばらくかかった。

振られたことを突然話題に出され、返答に困った。自分の中では話しても笑いに変えることができないからと話題は考えてすらなかったので、苦笑いして流す。周りの絶妙な煽りというか、指摘のようなものに対しても煮え切らない返事しかできない。そうやってやり過ごせたらいいやと考えていた。でもどうなんだろう。それは周りへの気遣いになってるのか。なってないかなぁ。周りはその場を沸かせる程度の笑いを期待してるだけ。変に黙られて困るのは相手を自分に置き換えたら瞭然。大人な対応とは程遠いか。うーん。

ラ・ラ・ランド

 今日は映画鑑賞が趣味の先輩に勧められ、ハリウッド映画「ラ・ラ・ランド」を観に新宿へ向かった。正直なところミュージカルには縁がなかったのだが、友人に誘われたので試しに観てみることにした。結論から言って、観に行って良かったと思っている。

 映画はロサンゼルスの青空から始まる。バックのラジオ放送ではチャイコフスキーの「1812年」が流れている。開始数分後、主人公を巻き込む交通渋滞の場で突然ミュージカルが始まる。いわば「これはミュージカル映画ですよ」という紹介の役割を担う名刺代わりのようなこのミュージカルは、出演者の表情を観ていても、ダンスを観ていても、とにかく楽しい。何がと問われると明確には答えられないが、幕開けに続くハイテンションなミュージカルに乗せられて瞬く間に映画の世界に引き込まれてしまった。やられた…一度引き込まれるともうしばらく戻れない。日本に住んでいると一度は憧れるであろう欧米の垢抜けた街並みを中心に物語は進む。主人公は、短大を中退し女優を目指してオーディションを受け続ける傍らカフェでアルバイトをするミアと、ジャズを愛しジャズピアニストとして生計を立てようとするセブの2人。それぞれ自分の夢を実現しようとするが空回りをしているという似通った境遇の2人がふとしたきっかけで顔見知りになり、互いの人生に刺激を与えていく。だらだらとあらすじを書くことになりそうだが、あまり面白くないだろうからここらで止めて、以下に個人的な感想を述べたい。

 この映画で注目すべき点は3つ。1つ目は、カメラワークである。この映画では登場人物の心情を思わせるような絶妙なカメラの切回しによって視聴者を引き込ませている。ミアとセブが喧嘩をしたシーンでは、ミアを映しているカメラが上下左右にブレている。ここでは思いを吐露し、またセブの意見を聞いて考えがまとまらないミアの焦ったさのようなものがうかがえる。また、エピローグのセブが演奏するシーンでは、セブが演奏する緊迫する様子を映した後、カメラがじっくりと、しかし矢継ぎ早に回転することによって観客の様子を満遍なく映している。この回転する約1秒の間に、演奏する者と聴く者の張り詰めた緊張感の差をはっきりと感じ取ることができる。ほんの数秒のカットでさえ深い意味があるのではないか、と感じさせられるカメラワークである。

 2つ目に注目したいのはミュージカルだ。この作品では、要所要所でそのタイミングにおける登場人物の心情がミュージカルとして表現されている。冒頭で披露されている生きる活力や、主人公2人が夜景をバックに素直になれずお互いにすれ違いながらも心を近づけていく様子、同棲しながら2人の未来を語り合う様子など、いずれのミュージカルシーンも明快であり、何より観ていて楽しい。ミュージカル映画は、そうでない映画と比べて作品のメッセージの質が異なっている。そしてそれは伝わり方の違いによると考えられる。通常、映画において作者が伝えたいことは、登場人物の発言という形で扱われることが多い。登場人物のセリフというフィルターを通すことで、それまでの話の流れを汲んで観客がメッセージをイメージする。それはスクリーンという1つの世界において観客が登場人物に感情を移入しやすいからにほかならない。また、ここで流れているBGMも雰囲気の盛り上げ役として作用する。セリフ単体では伝わりづらいメッセージも、BGMの醸し出す雰囲気によってメッセージの大枠が浮かびやすくなるという作品も多い。しかし、ミュージカル映画はそうではない。セリフが歌詞となり、BGMと一体化したメッセージになっているのである。さらにミュージカルの場合、ここにダンスという体の動きが加わり、メッセージ伝達の手助けを担っている。登場人物の気持ちと雰囲気を形作るBGMが1つになっていることで、観客は見て聞いたままの印象を受け止めることができる。これは大人だけではなく、子供にとっても同じように伝わる。この「変に細かい説明をくどくどとされた時より思い切った少ない言葉で説明された時」のようなわかりやすいという質がミュージカル映画ならではの良さなのだと思う。

 3つ目に注目したいのは、音楽である。劇中では、ミュージカル以外にもBGMなどのインストゥルメンタルとしての音楽が流れている。中でも印象深いのが、「ミアとセブのテーマ」という曲。これは、ジャズバーでアルバイトをするセブが演奏していた曲であり、この演奏に惹かれたミアはこの曲を通じて再びセブと巡り会うことになる。いわば2人にとっての運命の曲なのである。映画のエピローグでは、2人は5年後にセブの経営するジャズバーで邂逅することになる。思いもよらず客席から舞台を見つめるミアを見つけたセブはどう思ったのだろうか。おもむろにセブはこの曲を演奏する。劇中では何度となく演奏され、またいくつかの異なったアレンジによる演奏もあり、作品を観終えた後もしばらく耳から離れないだろう。名作と呼ばれる劇場作品には、それについて回るテーマ音楽存在していることが多い。この映画といえばあの曲を思い出す、といった調子だ。有名なところでは「タイタニック」「ニュー・シネマ・パラダイス」などの映画で、いずれもテーマ音楽とともに長年愛され続けている作品である。アカデミー賞を6部門受賞した今作は、上記の例に漏れず「ミアとセブのテーマ」とともに後世に愛され続ける作品となるだろう。

マジック・ワルツ

 今回は好きな曲を1つ紹介しようと思う。

 昨年11月に行われた大学祭で、私の所属するピアノ部はサロンコンサートを行った。これは数人ごとに幾つかの部に分かれ、それぞれあるテーマに沿ってピアノを弾くミニコンサートのようなものである。そこで私は「映画音楽部」を企画し、サロンを盛り上げようと試みた。映画音楽部とは、洋邦問わず古今の映画作品において用いられたテーマ曲、BGM、挿入曲などをピアノで演奏することで、実際の映画をイメージして楽しんでもらうという企画だ。ここで演奏された曲は、いずれも珠玉の名作であり、ここですべてを紹介するにはあまりに狭いため、今回紹介する1曲を除きいずれ追って紹介したい。

http://youtu.be/0lBnr9RyISU

 今回紹介する曲は、映画「海の上のピアニスト」より「マジック・ワルツ」。ある先輩が映画音楽部で演奏した時に初めて聴いた。緩やかに流れる3拍子で、ロマンティックで明るく、それでいてどこか儚い。

 海の上のピアニストは、船上で生まれ、一度も陸地に下りることなく生涯を終えたピアニストの物語である。マジック・ワルツは、嵐で揺れる船内において主人公が演奏する曲である。船酔いとともにピアノがまるで踊っているかのように揺れに応じてくるくると動き回りながら演奏されるため、さながらミュージカルのダンスシーンをを見ているような楽しい気分になれる。この曲の特徴は、小節中の3拍が均等ではなく、2拍目が少し早くなっている箇所が存在するウィーンナワルツであるということである。これによって独特な華やかさが感じられるのである。

 仕事に追われた時、人間関係で悩んだ時、その他ストレスがたまっている時などに、この曲を聴いてみてはどうだろうか。この曲の優雅さに浸ればきっと疲れを忘れてリラックスできるだろう。